以下は、Gawker名で「anarchistnews.org」に本年3月19日に投稿された記事「Ferguson and the Criminalization of American Life」の要約である。けれども同サイトはこの投稿の筆者をDavid Graeber氏としている。氏がすでに名のある研究者、活動家であるから、読者の注目を集めるため、編集者はその了解を得てあえてそうしたのだろうと推測する。なお氏についてはWikiを参照されたい。(2015年)
一言コメントしておきたいのは、Graeber氏の分析は大いに示唆的だが、冒頭で「ファーガソン警察が生み出したレイシズムは、アメリカにおける市民生活のすべてのレベルで起りつつあることの悪夢的なカリカチュアに過ぎない」と書いているところには疑問がある。黒人に対するレイシズムはアメリカの現体制がその維持のために恒常的に利用してきたのであり、変貌しつつあるアメリカの市民生活のカリカチュアにとどまるものではない。多数の黒人たちが殺害されている以上、レイシズムは氏のいう「全市民の犯罪者化」政策のリアルな、先端的な実現ととらえるべきだろう。
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「ファーガソンとアメリカにおける日常生活の犯罪化」
03/19/2015 From Gawker
ファーガソン警察に対する司法省の調査報告はアメリカ中を憤慨させたが、それも道理ありである。しかし、確かに警察の組織的なレイシズムはショッキングであったが、報告で、もっと驚くべきははそのことではない。
より忌まわしいのはこのことだ。アメリカの主要都市における警察司法システムが、その人口の大多数を、守るべき市民としてではなく、いかなる方法を使ってでも、もっとも貧しく、もっとも弱い人間から金を巻き上げる恫喝/ゆすりの潜在的対象者として見ていることである。
これを経済的搾取の「変則的な例外だ」と書く人間が出てくるだろう。だが、実際はそうではない。ファーガソン警察が生み出したレイシズムは、アメリカにおける市民生活のすべてのレベルで起りつつあることの悪夢的なカリカチュアに過ぎないのだ。それは、私たちが誰であり、社会組織や制度にどう関わるかについての私たちの最も基本的な立ち位置を壊滅的な方向に変えつつあるものである。
司法省の報告は、次のような事態を明らかにしている。ささいな違反(たとえば違法駐車やシートベルト不着用)に対しても出来るだけ召喚状を出させようとする警察への圧力、またそれらの違反に対してできるだけ高い罰金を出させようとする裁判所への圧力、従うのがほとんど不可能に見える裁判所のルール、そして、これまでいかなる犯罪も犯したことがない普通の市民が突然包囲され、病気と怪我のリスクがある薄汚い独房に「期限なしに閉じ込めるぞ」と恫喝され、貧しい家族が数千ドルでないとしても数百ドルの罰金を積むまで収監されるという事態。
このような取締りの結果、実にファーガソン市の人口の75%以上の人びとが身柄拘束のための召還状を出されている状態になっている。つまり、全住民の犯罪者化が起っているのだ。
ここで重要なのは、この召喚状がいわゆる(刑法上の)「犯罪」に対してのものではないということである。住民たちは、刑法上の重罪や不法行為を問われているのではない。問われている違法駐車、芝刈の懈怠、ゴミ箱の不適切な設置などであって、これらはもちろん「犯罪」を構成するものではない。これらは、たとえばスーパーマーケットが期限切れのパンを陳列した時に問われるのと同じ行政取締事項の違反なのだ。にもかかわらず、違反行為はあたかも「犯罪」であるかのように扱われる。
これらの違反行為は、明らかに普通私たちが「不正義」と見なすようなことと無関係である。もし、駐車違反を理由として市民を取り締まる警察の暴力がひどく映るとすれば、それは部分的に、警察とはそもそも何かを私たちが忘れてしまいがちだからだ。実際のところ警察は、暴力的な犯罪者にはほとんど時間を使っていない。警察社会学者たちは、警察官は平均して勤務時間の10%程度を実際の犯罪に使っていると報告しているが、これはすなわち、残りの90%の時間が、さまざまな行政規則違反の取締まりに費やされているということである。これらの行政規則は、私たちが、どこでどう食べ、呑み、タバコを吸い、販売し、座り、運転するべきかに関わるものだ。もし二人の人間が殴り合っていたり、互いにナイフを向け合っていたりしても、警察はめったなことでは介入しないだろう。だが、もしライセンスプレートなしで運転していれば、警察はたちどころに現れ、「指示に従わないと悲惨な結果になるぞ」と脅かしてくる。
だから警察とは、本質的に武器をもった官僚組織なのだ。彼らの社会における中心的な役割とは、たとえば、ただ無税のタバコを販売するのを禁止する規則を強化すべき状況で、物理的な力の(時には死の)脅迫を持ち込むことにある。
アメリカの大部分の歴史において、警察が行政規則違反を取り締まることに主要な財源を振り向けるべきだと考えられてきたわけではない。しかし現在では、多くの市において、その財源の40%近くが、ファーガソンの市民たちには生活上の事実となっているような、警察の略奪的な取締まりから得られるものに依存している。どうしてそうなったのか?もちろん、そのうちの幾つかは、カリフォルニアの13号提案からはじまった、ポピュリストの反税運動と関係している。だが大部分は、地方政府がこの数十年で巨大民間金融機関ーその多くが、2008年に私たちを襲った経済的クラッシュ(リーマンショック)でも登場しているがーに大きな負債を背負ったことから派生しているのだ。たとえばファーガソン市では、市民の行政違反行為に対する罰金からあがる収入が、市の負債に対する返済額とほとんど一致している。かくて、ますます多くの市が、債権者への返済のために市民を逮捕するビジネスに従事することになる。
だが、銀行自体も同じような手法を取っているのだ。ほとんどの金融機関は、その利益の大部分を一般顧客の規則違反に対する課徴金から得ている。消費者金融保護局(CFPB)の2012年のある報告によれば、消費者口座の貸越振り出しや残高不足に対する課徴金が、銀行の利益の61%を占めたという。2009年には、アメリカでもっとも大きな銀行であるJ.P.Morgan Chaseが、総利益の71%が手数料と課徴金から得られたと報告している。この事実は、別のいい方をすれば、アメリカの銀行は、かれらの顧客の大半がその内容通りに従うことができないほど複雑なルールを「意図的」に作成し、従わなかったからという理由で課徴金を徴収するということに依存しているということである。
この収奪パターンは他でも見いだせる。大学など高等教育システムの分野においても、システムは学生を永続的に借金漬けにする推進機関として運営されている。(高金利奨学金の)負債を抱える学生から徴収される利益の多くが、返済忘れ、返済延滞、破産に対する課徴金から得られるものになっているのだ。
今日、アメリカにおけるほとんどすべての組織/機関はー企業から学校、病院、自治体にいたるまでー破られるためにデザインされた複雑な規則を市民に押しつけることによって収入を得る推進機関として運営されているように見える。そして、これらの規則は不可避的に段階的スケールで適用されざるをえず、金持ちと権力を持つ者にはとてつもなく優しく(2008年に法を破った銀行に何が起ったか考えてほしい)、貧しく、弱い者には絶対的な過酷さで対応するのだ。その結果、もっとも豊かなアメリカ人たちが今日、財産を増やすのに、何かを作ったり、売ることによってではなく、私たちが犯罪者であるかのように思わせる「革新的な方法」にますます頼るようになっている。
考えてみれば、これはとてつもない変化である。しかし私たちはほとんど話題にしていない。この変化は、同時に人びとの社会に対する考え方を急速に変えつつあるのだ。
実際のところ、いわゆる「中産階級」とは経済的なカテゴリーではなく、社会的なものだ。あなたが中産階級になるということは、「社会の基礎的な制度や機構は、私たちのサイドにある/あるべきだ」と感じることである。もしあなたが警官を見て、より安心感を覚えるとすれば、あなたが中産階級に属していると考えていい根拠は充分にあるだろう。だが、世論調査が始まって以来初めて、2012年の調査は、大部分のアメリカ人は自分たちをもはや中産階級とは見ていないことを示した。
司法省によるファーガソン警察の調査報告から、なぜ人びとがそう感じているのかを理解するための鍵を引き出すべきだろう。それは大部分のアメリカ人が、政府の機関はもはや自分たちのサイドに立ってるとは感じなくなくなっているからである。そしてその理由は、もっとも基本的な意味で、政府がますますそうなりつつあるからである。